--- 日本考古学協会第67回(2001年度)総会 研究発表要旨 ---

考古学的脂肪酸分析の問題点


難波紘二1)、岡安光彦2)、角張淳一3)

1)広島大学総合科学部、2)(株)パスコ文化財事業室、3)(株)アルカ

 動物や植物の細胞に含まれる脂肪は化学的には 脂質(lipid)と呼ばれ、グリセリンやコレステロ ールが脂肪酸と結合した単純脂質とさらに糖や燐 酸を含む複合脂質に分類される。
  脂肪酸は一般に炭素原子が長く鎖状に連なった 構造をもち、炭素原子数により分類され、さらに 炭素原子間に不飽和結合を含むかどうかで、飽和 脂肪酸と不飽和脂肪酸に分類される。生物は種ご とにその環境に適応して、異なった脂肪酸を利用 しているが、ある生物種に特異的な脂肪酸はない 。これが生体高分子(タンパク質、DNAなど)と 大きく異なる点である。脂肪酸の組成パタンを利 用して食品中の脂肪の由来(動植物の別、種別な ど)を推定する方法は、1960年代に食品化学で用 いられたが、1970年代により簡便で特異性の高い 抗原・抗体反応を利用した免疫学的識別法が登場 するに伴い急速に廃れた。
 しかし考古学の領域では1980年前後にもこの方 法を用いた研究が発表されており、ことに日本で は「馬場壇A遺跡」の信憑性を支える重要な科学 的根拠となっている。
 そこでこの問題について、発表された文献を批 判的に検討した。

【材料と方法】

 この研究を行った中野益男が発表した論文、学会 抄録並びに彼が引用した文献全部を収集し、先行 研究の実情、行われた実験の前提、実験方法、え られたデータの整合性、結果の解釈について検討 した。対象とした文献は、末尾に掲載した。
 なお彼が引用しているRottlaenderら(1979)の 論文は、Archaeol. Physikaという雑誌が「国際 学術雑誌総合目録」に掲載されておらず、論文の 実在を確認できなかった。
 また「馬場壇A遺跡」では、「20万年前の石器 からナウマン象の脂肪酸が検出された」とされ、 きわめて注目すべき成果であるにもかかわらず、 これに関する正式の記載は中野の学会発表(1989) のみであった。

【結 果】

 先行研究:Priestleyら(1981)は「湿度100%、 温度45℃」の「加速加齢」実験では不飽和脂肪酸 は数日で急速に分解されるが、「乾燥、低温」と いう特殊な条件下では少なくとも1500年前のトウ モロコシの実から脂肪酸が検出されたと報告し、 これが「最古の脂肪酸」だと主張している。Rott laenderら(1983)の論文は記述方式および内容か ら原著論文とは言えず、総説の一種である。中野 が引用しているような「25万年前の脂肪の残存が 報告された例」はない。これは「実験室内での脂 肪分解」という項で、「いかにしたら脂肪の特異 構造が25万年も残ることがあるか?」という問題 意識で実験を組んだ、という表現を読み間違えた ものである。
 この時点で報告されている脂肪酸検出例のもっ とも古い時代は、植物では上述の乾燥したニュー メキシコの洞窟から回収されたトウモロコシ実の 脂肪酸 (5世紀)、動物ではRottlaenderら(1983) が新石器時代の土器から「ミルクの脂肪」を検出 したと主張しているのみである。  従って旧石器から脂肪酸を検出したものは、中 野以前には誰もいなかった。

 実験の前提:石器に付着した脂肪が20万年にわ たり分解されないで残ることを証明するには、よ く管理された対照実験が不可欠である。中野が行 った対照実験は、中野(1995)に簡単に記されてい るだけである。それによると「エゾシカの脛骨」 を埋蔵し、14ヶ月と23ヶ月の2回だけ、脂肪酸の 成分分析を行い新鮮骨のそれと比較しているに過 ぎない。長幹骨は内部に骨髄脂肪があり、それは 外表付着脂肪とはまったく異なる分解過程をとる ことが予想される。従ってこの実験はデザインに おいても測定回数においても、対照実験の役割を 果たしていない。

 実験方法:中野は土壌資料は「アルミ箔を広げ それにくるみ、直ちに凍結保存した」、「石器は 竹べらで周辺の土ごと取り上げた」と述べている 。「土壌91資料、石器40資料および石器側土40資 料」を分析したとしている。
 しかし岡村(1990, p79)に掲載されているサン プル土壌の採取写真によると、土壌はガラスシャ ーレに採取されていて、採取者は手袋をはめてい ない。また岡村は中野に依頼した資料は、「石器 14点、土壌35サンプル」としており、両者の数字 が食い違っている。
 また分析した結果をナウマン象の脂肪酸と比較 しているが、そのサンプルの出所も不明である。 またその成分データも掲載されていない。(出所 が1969年北海道広尾郡忠類村出土ナウマン象の骨 髄から抽出した「油状物質」であることは、中野 (1993)で初めて述べられている。しかしそれが中 野の手に渡った経緯は不明である。)
 サンプルから有機溶媒を用いて脂質を抽出し、 それを脂肪酸に分解する方法と脂肪酸を分子量の 違いに基づいて分ける方法自体は、ごく一般的な 方法である。

 得られたデータ:石器30/40から動物脂肪を検 出した。(うち17/30がナウマン象およびオオツ ノジカの脂肪と「よく類似していた」)また動物 性油脂の付着した石器の分布する土壌(側土では ない)からは、動物性のコレステロールを特異的 に検出した、としている。
 石器表面にかりに脂肪が付着していても、その 量はきわめてわずかであると推定されるが、中野 は石器あたりの脂肪回収量を明記していない。従 って彼のデータに定量的な評価を加えることは不 可能である。
 つぎに「石器にマンモスの脂肪酸が付着してい た」と彼が判定した根拠であるが、対象としてナ ウマン象、オオツノジカ、ニホンシカの脂肪酸分 析を行い炭素数16から21までの9種の脂肪酸の含 有比率を求め、そのパタンと石器の脂肪酸パタン を比較している。(オオツノジカは化石骨から脂 肪を抽出したと述べている)
 その中には、Rottlaenderら(1983)が示した土 器の脂肪酸のパターンと現代のバターのそれとが 完全に合致するような、明らかな一致例は一例も ない。そこでコンピュータによる統計処理を行い 「もとの脂肪と異種脂肪の混合割合を求めて」、 「遺物本来の脂肪を割り出す」という摩訶不思議 な操作が行われているが、用いた方法も統計ソフ トも明示されていない。
 さらに不思議なのは棒グラフとして示してある 脂肪酸データから、石器ではいずれも5%程度のパ ルミトレイン酸が、土壌サンプルでは少ないとこ ろで5%、 場所によっては40%という高濃度のパル ミトレイン酸が検出されたことが読みとれるが、 対象として用いたナウマン象からはこれがまった く検出されていない。
 なお中野(1989)では対照動物の脂肪酸組成は数 値で表されていないが、中野(1993)および中野(1 995)にはナウマン象とオオツノジカの数値データ が掲載されている。両データはオオツノジカの数 値については同じであるが、ナウマン象ではかな り異なっている。中野が示す各種動物の脂肪酸測 定値によると、パルミトレイン酸含量はニホンシ カ11.41%、オットセイ12.7%、イルカ8.5%である 。もちろんナウマン象は0%である。

【考 察】

 1. 原著論文がない奇妙さ:中野が主張してい るように「20万年前の石器から動物の脂肪を検出 した」のが事実であるなら、それは疑いもなく科 学研究における巨大なブレークスルーであること は、先行研究の状況から明らかである。それは十 分にNatureやScienceへの掲載に値する業績であ る。それなのに中野は1988年の「第四紀学会シン ポジウム」で講演した後、引用文献もない抄録を 提出したのみで、これに関する正式論文を日本語 でも英語でも、どこにも発表していない。このこ とはまったく理解できない。にもかかわらずその 「成果」を中野 (1993)、田中・佐原(1994)、中 野(1995)において、あたかも科学的に確定した事 実であるかのように語っているが、科学的事実は 論文の公表により、その内容が科学者の世論によ り承認されて初めて確定するのであり、この手続 きを怠ることは間違いである。

 2. 不備な対照実験:中野が行った対照実験は 、「エゾシカの脛骨を土中に埋め、23ヶ月間に2 回脂肪酸を測定した」というもので、「20万年前 の石器に脂肪が残存する」ということを証明する 実験としてはまったく不適当である。これは「25 万年前云々」のドイツ語文献の読み違いにより、 「存続するはず」という予断をいだいて実験を行 ったことが推定される。脛骨内部の脂肪の変化は 石器表面のそれとはまったく条件が異なっている 。石器表面の残存脂肪を論じるのであるから、石 器の表面に脂肪を付着させ、これを土中に埋めて 持続的に脂肪の減少量と脂肪酸組成の変化を測定 する対照実験が不可欠である。

 3. 実験材料のあいまいさ:分析を依頼した岡 村と依頼された中野の述べるサンプルの採取方法 とサンプル数の間には大きな食い違いがある。依 頼された数よりも、実際に測定を行う数はさまざ まな事情により、絶えず少なくなるはずであるが 、中野の場合はこの逆で数が増えているという不 可解さがある。また送った側は「ガラスシャーレ に入れた」といい、受け取った側は「アルミホイ ルに包まれ、液体窒素に保存されていた」と述べ ており、大きく違っている。このような基本的数 値や検体状況の不正確さは受付台帳などのログブ ックが完備していれば、起こりえないことである 。

 4. 実験では何が分析されたのか?:与えられ たデータから判断する限り、石器表面から本当に 脂肪が検出されたという信ずべき証拠はない。も し検出されたとしたらサンプルの汚染か、あらか じめ脂肪がつけられていた可能性を考える必要が あろう。
 そのひとつの状況証拠は、パルミトレイン酸の 含量である。この脂肪酸は炭素数16であるが、不 飽和結合を1個もつために、同じ炭素数16でも飽 和結合しかもたないパルミチン酸にくらべ融点が 50℃以上低く、常温で液体(融点0.5℃)である 。また空気中で簡単に酸化され不飽和結合が開き 、パルミチン酸に変わる。同様にオレイン酸(C18 :1)やリノレイン酸(C18:2)のような炭素数18の 不飽和脂肪酸も、飽和脂肪酸にくらべ分解が急速 である。
 Priestleyら(1981)の実験で は、パルミチン酸が正常では15%程度であるのに 対して1500年経過したサンプルでは36%に増加し 、リノレイン酸は45%から4%に減少している。中 野の不完全な対照実験でも、パルミトレイン酸の 濃度は23ヶ月間に12.2%から10.5%に減少し、オレ イン酸も49.2%から46.0%に減少しているが、飽和 脂肪酸のステアリン酸は6.6%から8.1%に増加して いる。
 このようなパルミトレイン酸の物理化学的性状 を考慮するとき、20万年前の石器表面から5%もの 高濃度のパルミトレイン酸が検出されることはま ことに不思議といわねばならない。ちなみに人の 脂肪中のパルミトレイン酸含量は4%程度である。 ナウマン象は寒冷適応しており常温で液体のパル ミトレイン酸の含量は高かったと思われるが、中 野が対象として分析した土中から掘り出されたナ ウマン象では、パルミトレイン酸の含量はゼロで あった。明らかに周囲の土中に流出したのである 。だとしたらどうして20万年の間、石器表面にパ ルミトレイン酸がとどまりえたのであろうか?

 5. 間違った統計学の利用:石器の脂肪酸パタ ンが既知の動物の脂肪酸パタンと一致しなかった ために中野は、「混合した脂肪の中から、本来の 脂肪を割り出す」と主張し、統計学的な手法を持 ち出して、石器でナウマン象を調理したことを無 理やり証明しようとしている。しかし本来統計学 は目で見て間違いないと思われるデータについて 、偶然の一致によるものでないことを除外するた めに利用すべきもので、彼のやり方は方法の誤用 である。「本来石器に付着していた脂肪と汚染な どにより二次的に付着した脂肪」が統計処理によ り分けられるはずがないのは、「牛肉を切った後 で豚肉を切った包丁」について「本来は牛肉を切 った」と証明できないのと同様である。

 6. 脂肪が残る条件:人体を含め動植物は、個 体の死と同時に細胞の自己融解および微生物の繁 殖による腐敗が生じ、分解が始まる。また空気中 や水分中の酸素により絶えず酸化的分解が生じて いる。これらの過程は動植物の形が失われ、その 構成分子に還元された後もなお続いており、究極 的には元素に還元されるまでやむことがない。も し不安定な脂肪酸が保存されるような環境であれ ば、より分解しにくい骨や歯がまず大量に残るの が普通である。
 事実Priestleyら(1981)が分析したのは、洞窟 の中に残っていたトウモロコシの実であり、それ は外形的にはっきりとトウモロコシの形をしてお り、粉にひくと淡褐色の粉末にすることができた 。彼らは「乾燥した極端な環境で」、不飽和脂肪 酸が残存することがある、と述べており、非常に 例外的な現象だと考えられる。またRottlaender ら(1983)の研究の詳細は原著論文として発表され ていないが、少なくとも彼らが「ミルクの脂肪」 (バター)を検出したのは、それを貯蔵していた と見られる壺の破片からであり、もともときわめ て大量の脂肪が付着していたことは当然考えられ る。
 このような脂肪が石器に大量に付着したり、あ るいは局地的に脂肪の分解を押しとどめるような 特殊な条件は、「馬場壇A第20層」にはまったく なかった。だとするなら「なぜ石器に脂肪が残っ ていたのか」ということが、科学的に説明されな ければいけないのである。しかし中野(1989)の発 表はそれにまったく答えていないし、それ以後の 彼の論文も同様である。

 7. 残ったのは脂肪だけか?:仮に100歩ゆずっ て実際に石器にナウマン象の脂肪が残存していた とすれば、脂肪細胞も残っているはずであるし、 脂肪酸よりはるかに安定な物質である糖質やタン パク質やDNA分子は残存していることが予想され る。これらは脂肪酸と異なり種特異的であり、人 間の手が触れていても区別できる。免疫学的手法 や遺伝子検索により、ナウマン象固有の物質が検 出された場合に、初めて中野の主張は「追試によ り確認された」と言えるのである。
 実際に人類学の領域では、数万年前の化石人骨 のミトコンドリア遺伝子(DNA)を分析したり、 数千年前のミイラの血液型(糖質)を判定したり 、数百年前の糞石からヒトのミオグロビン(タン パク質)を検出して、食人が行われたことを証明 したりなどに、広く利用されている。

【結 論】

「馬場壇A遺跡」において石器から「20万年前の 動物脂肪が検出された」という主張には、確実な 証拠がない。まして動物種の確定は用いられた方 法を見る限り不可能である。従って「馬場壇A」 の信憑性を支える科学的証拠のうち「脂肪酸」に 関しては、これはまったく存在しないものとみな すべきである。

 

【引用文献】

1)Rottlaender, R.C.A. & Schlichtherle, H (19 79): Food identification of samples from archeo-l ogical sites. Archaeol. Physika 10: p. not s ited

2)Priestley,DA,Galinat,WC & Leopold,AC(1981) : Preservation of polyunsaturated fatty acid i n ancient Anasazi maize seed. Nature, 292: 146-148

3)Rottlaender, RCA & Schlichtherle, H(1983): Analyse fruehgeschitlicher Gefaessinhalte. Naturwissenschaft. 70:33-38

4)中野益男(1989):考古学資料に残存する脂質? 馬場壇A遺跡の石器に残存する脂肪の分析(講演 要旨). 第四紀研究、28(4):337-340

5)岡村道雄(1990):日本旧石器時代史. 雄山閣書 店

6)中野益男(1993):脂肪酸分析法、第四紀学会( 編):第四紀試料分析法. 東大出版会、pp388-4 03

7)田中琢、佐原真(1994):発掘を科学する. 岩波新書、pp29-45

8)中野益男(1995):残存脂肪分析の現状と課題. 考古学ジャーナル No.386: 2-8